院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


サンマメス ー 六月の朝

 

東京駅中央口を出て八重洲通りを東へ歩くと、五分ほどでタイヤメーカーであるブリヂストンの本社ビルがある。その一角にひっそりとブリヂストン美術館はあるのだが、収蔵作品群の質の高さとは裏腹に、美術館の佇まいは簡素で飾り気がなく、どことなく冷たい感じで、それ故にまたその作品群の温もりが肌で感じられるような、不思議な美術館である。学生時代、幾度となく訪れたこのビジネス街の美術館を、先日わたしはひっそりと訪れ、そしてひっそりとした時間を過ごした。この美術館にはシスレー(十九世紀フランスの画家)の絵が二枚あるのだが、そのうちの一枚が、我が心のマスターピース「サン=マメス六月の朝」である。キャンバスの中の陽のあたる場所。私はそこに憧れ、そしていくつもの夢を見る。ある時はルノアールの木漏れ日に触れ、またある時はモネの日に光る水面を滑り、セガンティー二の陽光に映ゆるアルプスの大地に心を馳せたかと思うと、フェルメールの窓光の佇まいに魅せられ、知らぬ問にスーラーの芝生で飛び跳ねる光と戯れる。そして今、私はシスレーの絵の前で立ち止まっている。家々の陰に取り残された、陽のあたる小径の暖かさはどうだろう。ロワン(セーヌ川の支流)の風を受け、朝日に輝く並木の絶えざるハーモニーよ。私が求めていたもの、私を過去の思い出に誘い、幸福に満ちた未来へ導くものがそこにある。しかしこの絵には、魂の高揚を促すものは何もない。ありふれた日常の風景。シスレーの絵を見ていると、いつも私は満ち足りた安心感とそれに拮抗する不安感を覚える。時としてそれらは交錯し、融合し、また乖離する。彼の絵は喪われたものや過ぎ去ってしまったものへの郷愁の情を喚起し、周りを取り巻く全てのものを暖かく受け入れ、悪意に満ちた行為でさえ自然に許してしまえるような穏やかな感情 ―安穏とした感情の弛緩― を誘起する。私はそれがたまらなく好きだ、と同時に、何よりもそれを恐れているのだ。いまの私に必要なものは、シスレーのように瞬間の風景を、安らかな魂の織りなす永遠の心象風景に昇華させる智慧なのだろうか?それとも業あるいは原罪を背負った人として、湧き上がる感情(愛情、怒り、僧しみ)を刹那に燃焼する情熱なのだろうか? 足早に美術館を出ると、少し淀んだ空気で深呼吸をした。セーヌの詩人シスレーよ、目を閉じ、耳を塞ぐ私を許して欲しい。気がつくと私は、弛緩した感情を少しずつ引き締めながら、都会の雑踏に身をゆだねていた。


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